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東京地方裁判所 昭和58年(刑わ)3110号 判決 1984年6月15日

主文

被告人を懲役八月に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

理由

(当裁判所の認定した事実)

第一  被告人の経歴等

被告人は、昭和三五年三月に名古屋市立大学薬学部を卒業して同年四月A化学工業株式会社(以下「A化学」という。)に入社し、同社名古屋営業所に勤務した後昭和四三年から東京にある本社営業部の販売促進課課長代理待遇となり、昭和四四年二月からは本社学術部商品企画課長として主に他社が開発製造し既に販売中の医薬品と同一のものを自社の製品として導入するための仕事を担当していたが、昭和五五年三月には社内の組織変更によりそれまでの学術部商品企画課と社長室薬事課とが統合され第二開発部が新設されたのに伴つて同部部長に就任し、同社が昭和五〇年代に入つてから抗生物質新薬の開発に力を注ぐようになつたことに対応し、他社の医薬品の導入などの企画、情報の収集のほか自社が開発した新薬の製造承認申請手続に関する事務を統轄していた。

第二  本件の背景事情及び犯行に至る経緯

抗生物質は新薬は、いつたん厚生大臣の承認を得て製造販売に成功すれば企業にとつて多大の利益をもたらすことが見込まれることから、各製薬会社は巨額の費用(本件各医薬品の開発費用をみても、眼科用スルベニシリンナトリウムについては約五億円、塩酸、バカンピシリンについては約二億八四二〇万円、塩酸セフメノキシムについては約六二億七〇〇〇万円にも上つている。)を投じて開発研究に勤しむとともに、他の競争会社に先んじ一日でも早く製造承認を得るため、厚生大臣の諮問機関である中央薬事審議会(以下「中薬審」という。)に提出する製造承認申請用資料の内容や編集方法について細心の注意を払い、その一部は各社内においても秘密扱いにするなど、その開発商品化にしのぎを削つているのが実情であるところ、A化学においては、昭和四〇年代の後半から抗生物質新薬である「ペントシリン」の開発に着手するようになつたものの、日本抗生物質医薬品基準(以下「日抗基」という。)の改訂を伴う抗生物質新薬の製造承認申請をした経験がなく、中薬審における日抗基改訂や新薬製造承認のための調査審議の実性につきほとんど情報を有していなかつたことから、昭和五一年ころ、当時他社が開発した医薬品の自社製品としての導入や新薬の開発に関する情報収集などを担当していた被告人は、自社が新薬として初めて開発した「ペソトシリン」の製造承認申請用資料を作成するに際して遺漏のないようにするため、他社の新薬製造承認申請用資料を入手して参考にしようと考え、以前から中元、歳暮等の付届けや食事等の接待によつて取り入つていた国立子防衛生研究所(以下「予研」という。)の抗生物質部抗生物質製剤室長で中薬審の抗菌性物質製剤調査会の委員をしていたBから、同人が保管していた他社の新薬製造承認申請用資料のうち「ペントシリン」の製造承認申請に有用なものを借り受けて写を作成したほか、A化学が他の新薬についても開発研究を進めるのに伴い、自社の研究員から入手方を依頼されたり被告人自ら自社の開発研究に有益であると考えた他社の医薬品に関する製造承認申請用資料についても、右Bや日本薬剤師会の常務理事で同会薬価基準収載品目検討特別委員会の委員であるCから借り出し写をとるなどして情報収集に努めていたが、昭和五五年四月から右Bの後任として予研抗生物質製剤室長に就任し同年五月から中薬審の抗菌性物質製剤調査会の委員となつたDは、Bから引継ぎを受けたものも含め自らの保管する新薬の製造承認申請に関する資料を予研の関係者以外には閲覧させない方針をとつたため、被告人としてもいつたんは予研に保管されている資料の入手を断念することとし、その代替として、国立衛生試験所薬品部長で中薬審の新医薬品第一調査会の委員であるEに前同様の方法で取り入り、同人から他社の新薬製造承認申請用資料に関する情報の入手を図つていた。

第三  罪となるべき事実

被告人は、

一  A化学が独自に開発したペニシリン系注射剤である前記「ペントシリン」について、剤型や効能を追加し点眼剤として製品化しようと考えていたところ、F製薬株式会社が開発した抗生物質「眼科用スルベニシリンナトリウム」がペニシリン系点眼剤としては初めて厚生大臣の製造承認を得、発売後の売れ行きも良好であつたことから、自社の「ペントシリン」についても点眼剤としての日抗基改訂及び製造承認申請の手続を進めようと思い立ち、その際の参考に供するため右「眼科用スルベニシリンナトリウム」の製造承認申請に関する資料の入手を望んだが、前記Eは同医薬品についての調査審議に関与しておらず右資料の配付を受けていなかつたことから、前記予研抗生物質製剤室長Dの部下で以前から被告人が付届けや酒食の接待等で取り入つていた厚生技官の鈴木清をして、同室長が保管していた同医薬品の日抗基改訂に関する審議用の資料を無断で持ち出させてその写を作成しようと企て、昭和五六年一二月二日ころ、右鈴木に対して右資料の持出方を依頼したところ、保管資料に対するD室長の前記のような姿勢を知つていた鈴木は一応は渋るような態度を示しながらもこれを承諾し、ここに右資料持出しについて被告人と鈴木との間で共謀を遂げたうえ、同月二一日ころ、東京都品川区上大崎二丁目一〇番三五号所在の予研抗生物質部抗生物質製剤室において、右鈴木が前記D室長の管理にかかる中薬審抗菌性物質製剤調査会の調査審議に供された「眼科用スルベニシリンナトリウム」の製造承認申請用資料等が編綴されたファイル一冊(昭和五九年押第一六二号の1)を同室長の使用する戸棚から取り出して窃取し、

二  昭和五七年一〇月ころ、A化学の総合研究所所員であるGから被告人の部下を介してH製薬株式会社ほか一社が開発し厚生大臣の製造承認を得ていた抗生物質「塩酸バカンピシリン」に関する資料の入手方の依頼を受けるや、同資料とともにI薬品工業株式会社がそのころ厚生大臣から製造承認を受けたばかりの抗生物質「塩酸セフメノキシム」に関する資料についても、前同様鈴木清をして前記D室長が保管するものを持ち出させてその写を作成しようと企て、同月二八日ころ、右鈴木に対して右各資料の持出方を依頼し、前同様にしてその承諾を得、ここに被告人と鈴木との間で右各資料持出しについて共謀を遂げたうえ、同年一二月一九日ころ、前記予研抗生物質部抗生物質製剤室において、右鈴木が前記D室長管理にかかる前同様の調査審議に供された「塩酸バカンピシリン」及び「塩酸セフメノキシム」の各製造承認申請用資料等が編綴されたファイル各一冊(前同号の3及び2)を同室長の使用する戸棚から取り出して窃取したものである。

(証拠の標目)<省略>

(法令の適用)

被告人の判示第三の一、二の各所為はいずれも刑法六〇条、二三五条に該当するところ、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により犯情の重い判示第三の二の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役八月に処し、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予することとする。

(弁護人の主張に対する判断)

弁護人は、被告人らの行為は本件各資料に対する管理者の占有を侵害したものではなく、また、本件各資料は秘密性を欠き経済的価値を有しないものであるうえ、被告人らは本件各資料をコピーした後直ちに返還する意思で持ち出したものであつて、被告人には不法領得の意思がなかつたものであるから、結局被告人は無罪であるという趣旨の主張をしているので、これらの点に関する当裁判所の判断を補足して説明する。

前掲の関係各証拠によれば、本件各犯行当時、予研抗生物質製剤室長Dの執務室の戸棚に在中した新薬製造承認申請に関する資料については、同室長が前任者のBから引継ぎを受けた分も含め全てD室長の占有管理にかかるものであり、本件各資料もその一部であること、D室長は、新薬の製造承認申請に関する資料の中には企業秘密にわたる部分もあると考えており、予研内部の者が研究等のために用いる場合を除き、それ以外特に外部の製薬会社関係者に対しては自己の占有管理する右資料の閲覧等を許さないという姿勢を日頃からとつていたことが認められ、これらの事情からすると、同室長も供述するとおり、被告人らの本件各資料の持出し行為は同室長の容認しないものであることは明らかである(なお、弁護人は、D室長は本件各資料については本権に由らない単なる占有者にすぎないから、その意思を問題とすべきではない旨主張するが、D室長が本件資料の正当な管理者であつたことは疑いなく、そうであるとすれば、同室長が本件資料の外部への持出しを容認していたか否かは占有侵害の成否について決定的な要素となるものと言うべきである。)。本件において、被告人らはD室長の右のような態度を知つていたため、右各資料を予研外に持ち出すことを目的として鈴木清において同室長が不在の時を見計らい同室長には無断で本件各資料を戸棚から取り出し、これを自己の支配下に置いたのであるから、この時点でD室長の本件各資料に対する占有が侵害されたことは明らかである。そして、鈴木は、D室長の不在時を見計らつて予め定められた時間に製剤室を訪れた被告人に右各資料を直接手渡し、被告人はこれをA化学本社に持ち帰つてコピーを作成した後、眼科用スルベニシリンナトリウムの資料については約一六時間後の翌朝に、塩酸バカンピシリン及び塩酸セフメノキシムの各資料については約七時間後の当日夕方にそれぞれ鈴木の許に返却し、同人は右各資料をそれぞれD室長の戸棚の元の場所へ戻したことも証拠上認められるのであつて、右のような資料の利用状況や返却までの時間を見れば右占有侵害が実質的な違法性を具備していることも十分に肯認できるところである。

次に、本件各資料の秘密性ないし経済的価値についてみるに、本件各資料に含まれているデータや論文等のうち公表されているものもかなりあることは弁護人指摘のとおりであるが、例えば「日抗基以外の規格及び試験方法並びに設定理由」とか「概要」などのように公表されない部分もあり、製薬会社の中ではこれらの資料を秘文書扱いにしている例が多いこと、たとえ生のデータや論文が公表されている場合であつても、それらを網羅的に検索しその内容を仔細に検討したうえ、製造承認申請内の資料としてまとめ上げるまでには大変な労力と時間を必要とすること、特に資料中の「概要」の部分については各製薬会社ともその内容や編集方法に苦心しており、各社なりのノウハウ的な基準を有していることが証拠上認められるのであつて、これらに加え、被告人自身捜査段階において本件各資料の有用性を肯定する詳細な供述をしており、同供述は右に述べたところや本件各資料のうち眼科用スルベニシリンナトリウムの資料については現実にA化学内の開発委員会用の資料を作成する際に利用されたことなどに照らして十分合理的なものとして是認できることなどの事情を考慮すると、本件各資料は秘密性のほか有用性ないし経済的価値を十分有していたと認められる。そして、本件各資料の経済的価値がその具現化された情報の有用性、価値性に依存するものである以上、資料の内容をコピーしその情報を獲得しようとする意思は、権利者を排除し右資料を自己の物と同様にその経済的用法に従つて利用する意思にほかならないと言うべきであるから、判示犯行の動機及び態様に照らし、被告人には不法領得の意思が存在したと認めるのが相当である。そうだとすると、被告人の本件行為については窃盗罪が成立するものと言わなければならない(なお、犯行の際に利用後は資料(原本)を返還する意思を有しておりかつ現実に返還されたとしても、それは不法領得の意思の存在に影響を及ぼすものではなく、そのことによつて窃盗罪の成立が否定されるものではない。)。

以上のとおりであるから、弁護人の主張は採用しない。

(量刑の事情)

本件は、判示のとおり、製薬会社の部長の地位にあつた被告人が、自社の医薬品の開発及びその製造承認取得の手続を可及的迅速かつ確実に行うため、予研の技官である鈴木清と廿謀のうえ、同所に保管されていた他社の新薬製造承認申請用の資料ファイル合計三冊を窃取したという事案である。本件の背景として製薬業界においては熾烈な新薬開発競争があり、A化学の新薬開発手続部門の責任者であつた被告人としてもこれに巻き込まれざるをえなかつたという事情があつたとしても、不正な手段を用いて他社の新薬の開発研究の式果を入手することが許されないのは言うまでもないことであつて、犯行の動機において特に酌量すべき事由は存しない。犯行の態様も、資料の管理者であるD室長の不在中をねらい、同じ室で勤務する鈴木が同室長の戸棚から資料を取り出して被告人に手渡し、そのコピーをとるのに利用した後は何事もなかつたように元に戻しておくという巧妙なものであり、かつ、被告人は、公務員である鈴木に対し付届けや酒食の接待などを通じて取り入り、執拗に資料の持出しを働きかけていたものであつて、犯行後の証憑湮滅工作等をも考慮すると犯情は軽視できないものがある。また、本件は、国民の保健衛生に直接関わる医薬品製造メーカーの幹部が医薬品等に関する国の検定機関である予研の職員をも巻きこんで行つたという点において、医薬品及び国の薬事行政に対する国民の信頼をも損いかねないものである。

以上の事情を考慮すると、被告人の刑責は決して軽いということはできないが、本件においては中薬審に提出された新薬製造承認申請用の資料につき事後の処分、管理が徹底していなかつたという面もあること、被告人自身は本件犯行により直接私的な利益を得ているわけではないこと及び被告人にはこれまで前科前歴がなく、反省の情も十分窺えることなど、被告人に有利に酌むべき事情もあるので、これらの情状を総合勘案したうえ、被告人に対しては主文掲記の量刑が相当であると判断した。

よつて、主文のとおり判決する。

(新谷一信 大澤廣 草間雄一)

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